エピソード17「心から望むなら、なんでもできるんだよ。」
そこは小さなカフェで、学生時代、何度も訪れていた。
馬渕さんという人が1人で切り盛りしている。
馬渕さんはいつも帽子をかぶっている。
ポーカーフェイスであまり表情が変わらないけど、馬渕さんの言葉と行動はいつも優しく柔らかい。
馬渕さんに会いにカフェに訪れる人も多い。
ぼくは昔から馬渕さんを慕っていた。
顔にはでないのだけど毎日が楽しそうで、仕事が大好きで、そんな馬渕さんに憧れていた。
自分も好きな仕事がしたいって、馬渕さんをみながら思っていた。
馬渕さんと馬渕さんのお嫁さんと一緒にごはんに連れて行ってもらったこともある。
「馬渕さんのカフェにくるの、久しぶりだな。
この珈琲に染まる壁が、たまらない。うっとり。
あと馬渕さんの服装もいいよね。
きっちりしすぎず、でもゆるすぎず、あのバランスって実は難しいよね。
あと!!このハムサンドも変わらず美味しい。
ハムが手作りできるって、ここにきてはじめて知ったもん。
小さいころから、あのピンクの丸いハムしか食べたことなかったから、衝撃だった。
あとパンも手作り。え・・・馬渕さんって、いつ寝てるの?!
なんでも自分でつくれるんだ・・・って感動した。
優くんもすごいよね。
お菓子つくったり、珈琲は珈琲豆を煎るところからやってたよね。
いつかチョコレートも豆からつくりたいって言ってたの覚えてる?
つくってる?
優くんのカレーもひとくちちょうだい?
優くんは、今でもよく馬渕さんのカフェにくるの?」
夢ちゃんはいつも、喋りだすととまらない。
「夢ちゃん、いっきに質問しすぎ。」
ぼくは笑いながらカレーを夢ちゃんに差し出した。
アーシャはぼくのもってきたアーシャ用のおやつを嬉しそうに食べている。
「あ、夢ちゃん、これ。
フィナンシェつくってきたんだ。」
高良さんと馬渕さんと、そして念のため夢ちゃんにも手土産としてもってきたのだ。
「やった!!!優くんの焼き菓子だいすき!!」
夢ちゃんは目を輝かせていた。
「これ、馬渕さんもどうぞ。」
注文したデザートのクリームブリュレとチーズケーキと珈琲をもって、テラス席にきてくれた馬渕さんにもフィナンシェを渡した。
馬渕さんはいつもタイミングがいい。
ごはんをちょうど食べ終わったときにデザートと珈琲が来るのだ。
店内は満席なのに、慌てるようすもなく、丁寧に食事をつくり、珈琲を入れ、デザートを盛り付ける。
そしてお水がなくなっているお客さんがいれば、スッと席に行ってお水を淹れる。
無駄のない洗練された動き。
「おーありがとう。」
「プロに焼き菓子渡すのも、なんだかお恥ずかしいですが。」
「優くんのお菓子って、優くんの味がするんだよなー。」
馬渕さんがしみじみ言う。
「え?ぼくの味?」
「繊細な優しい味。」
「わかります。なんかホッとしますよね。優くん、今もお菓子作るんだね。」
夢ちゃんも深く頷く。
「そうだね、お菓子は作るよ。
ぼく、食いしん坊だからね。
自分の好みの味のおやつが食べたくて作るんだ。
あと落ち着くんだよ。
食べてもらえるのが嬉しいのもあるかな。」
「そっかー。」
夢ちゃんがにっこりと微笑む。
馬渕さんはお店のなかにいるお客さんに呼ばれて
「あとで食べるねー」と言って店内へと戻っていった。
「馬渕さん、楽しそうに働いているよね。
優くんはカフェを開いてみたいって、思ったことはないの?」
「え?ぼくがカフェを?」
「うん。だって昔からカフェ好きだし、お菓子つくるのも珈琲淹れるのも好きでしょ?」
「好きだけど・・・好きなだけだよ。
自分がカフェを開くなんて考えたこともなかった。」
「どうして?」
「だって、カフェは馬渕さんみたいなすごい人が開けるものだよ。」
「優くんだって、すごいよ。
美味しいおやつもつくれる。珈琲も淹れられる。センスもいい。」
「そ・・・」
そんなことないって言おうとして、ぼくは口をつぐんだ。
褒めてもらった言葉を「そんなことない」という一言で跳ね返すのは違うと思ったんだ。
さっき夢ちゃんを褒めたとき「ありがとう」と言って受け取ってもらえたことが嬉しかった。
だから、自分も大切に受け取ろうって思ったんだ。
「ありがとう、夢ちゃん。」
「優くんはカフェ、やってみたい??」
「いや、カフェで働いたこともないし。お店をもつってお金もかかるし、無理だよ。」
「優くんは、どうしたいの?」
「え?」
「やらない理由なら、無理な理由なら、いくらでも見つかるんだよ。
でもやりたいと思えば、やる方法だっていくらでも見つかる。
優くんが心から望むなら、なんでもできるんだよ。」
「・・・。」
「優くんは、馬渕さんみたいに好きな仕事をしている人に憧れていたよね?
今、好きな仕事している?」
ぼくは何も言えなくなった。
今のぼくは、仕事を楽しめている。
でも、この先もずっと続けていきたい仕事ではなかった。